むずかしくても、愛してたんだよ

毒母との関係に悩んだり、怒ったり、傷ついたりしてきた娘の思うところをつづります。

はじめましてのごあいさつ 〜「母娘問題」という言葉がくれたもの〜

はじめまして、國井入文(くにい いぶみ)と申します。
わたしもおそらくこちらに来てくださったみなさまと同じく、クセのある母との関係に悩んでいる「娘」です。いまでこそわたしと母の関係は歪んでいた、と思うわけですが、数年前まで自分の苦しみや不安定さに母親が関係しているだなんて考えたこともありませんでした。正確に言うと、母とは喧嘩も多かったし合わない部分もたくさんあったけれど、母に愛されていないわけではないし自分も母を愛していないわけでもないし、母と娘というのは「そういうもの」で「激しくて疲れるし苦しいけれど、これが普通」だと思っていました。

母娘問題、母娘クライシス、長女症候群、毒母…どれもここ数年でずいぶんいろいろなシーンで見聞きすることになった言葉たちですね。でも母と娘の間に横たわる息苦しさはいまになって急に溢れてきたというわけではなく、「母娘問題」と名がつくずっとずっと前から家族という密閉されたシステムの中に目に見えない深い海溝としてよこたわってきたものです。

 

少し横道にそれますが、「名前をつける」のはどういうことか、ということを考えることがあります。胸やおなかの中に霞や霧のようにもやもやとした思いがある、そのもやもやを味わってみたらどよーんとした気持ちになる、じゃあこのもやもやを「悲しみ」と名づけましょう、また別のものには「怒り」と名づけましょう、温かい気持ちになるものには「愛」と名づけましょう。こうして目に見えないもやもやに名前がつけられていき、それは目に見える世界に言葉としてあらわれるようになります。つまり名づけというのは、目に見えない世界のものを目に見えるこちら側の世界に産むことなんじゃないかなあと、わたしは思うわけです。

 

名前がついて言葉になると、どんないいことがあるのか?
個人で抱えていたあやふやなものに名前がつくと、世間や社会で共有し合うことができるようになります。言葉という共通認識を得ることで、一人でもんもんと抱えていたものをみんなで理解しやすくなるわけです。「母娘問題」という言葉も同様、それまで「お母さんと会うともやもやするけれどこれって何なんだろう」「お母さんとの関係に怒りや悲しみが込みあげるけれどこういう状態ってわたしだけなのかな」と悩み、身に起こった母親との出来事の断片をどうにか周りに話してみても「お母さんってそういうものだよね」「よくあることだよ」とこともなげに言われてしまうという体験をしてきた娘たちに「こんな苦しみが普通であってたまるものか!やっぱりお母さんとの関係はおかしかったんだ!」と気づかせてくれ、苦しみを共有するという体験を与えてくれるものでした。
ひとによっては、抱えていた葛藤に名前がつくことによって問題と距離をとって俯瞰できるようになったりもするでしょう。類型に自分の問題を当てはめることで「なるほど自分の苦しみの仕組みってこうだったのか」と気づいて救われることもあります。わたしがそうでした。

 

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もちろん、気づいて救われてはい終わり、といった単純なものではなくて、無視してきてしまった自分自身の感情や傷と向き合い、母との過去から今に至るまでの関係を現在の認知でとらえなおして現実の生き方に活かす……という忍耐を要する手順が待っていたりしましたが……まあ、それについては完璧じゃなくていいような気がしています。ひとは変わるものなので未来の自分がどう思っているかはわかりませんが、少なくともいまこれを書いている時点では苦しみも現在進行形ながら、まあ、それはそれでいいよと思っています。でも、やっぱりひと(他人)のことは完全にはわからないので「自分自身については」というエクスキューズつきです。
蛇足が長くなってしまいましたが、自分一人のものだった自分の体験をこうしてブログで言葉にすることで、同じように苦しむひとの肩の力がちょっとでも、一瞬でも、抜けることがあったらいいなぁなんてひっそりと思っています。あんまり肩肘張らずに、愚痴とかその日そのとき思い出したことなんかも含めて、気楽にやれたら理想的ですね。