むずかしくても、愛してたんだよ

毒母との関係に悩んだり、怒ったり、傷ついたりしてきた娘の思うところをつづります。

大嫌い、だけじゃないからむずかしい 〜タイトルの由来〜

なんとなくブログを始めてみようとして、まず最初に行き詰まったのはタイトルをどうするか、ということでした。安直に「毒母ブログ」みたいなわかりやすいのでよくない?と思っていたのですが、いやいや、せっかく自分自身の個人的なブログをやるのだから、もうちょっと自分の心に寄り添ったタイトルにしてみようかな、と思い直し、二転三転したうえで現在の「むずかしくても、愛してたんだよ」になりました。


母との問題を抱えるひとたちは、たいてい怒っている。自分もそうだ。でも、なんでこんなに怒っているのかなと考えてみると、それは「傷ついている」から。
よく思うのですが、怒りはいつも二次的な感情です。自分自身の人間としての権利や尊さを傷つけられると、誰だって魂に響くような痛ましい傷がつきます。魂が自らの存在と何人たりとも自分を軽んじて勝手に傷つけてよいものではない、という正当な価値を主張する本能のエネルギーが、怒りという感情のもとなのではないかなぁと思うわけです。
怒りは自分を守るための正当な感情であると思うのですが、傷ができたのならまず手当を望むべきかもな、と最近は思い、カッときたり怒りが湧いてきたときにはその裏で自分がどんなに傷ついていたのかを探すようにしています。なるほど、わたしの心はこういうわけでこういうことに傷ついていたのだね、と理解し、よしよしつらかったなぁ、と慰めてあげるということを繰り返していくと、ちょっとだけ怒りの熱量が小さくなるような気がします。それでも怒りが消えることはないのだけれど、熱すぎて触れられなかった感情にちょっと距離をとって向き合えるようになります。(……けどまあ、いつもいつも同じクォリティでそういう対応ができるとも限らないんですけどね)

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というわけで、わたしも「毒母黙れ!」と思うこともよくあるし、激しくてびっくりされるでしょうけど一時期なんかは「殺すしかないのではないか」と思いつめたこともあったのですが、ずいぶん自分自身の心を見つめて、できる限り感情をクリーニングしていって思うのは、むしろ大嫌い「だけ」だったらシンプルだけどなぁ、ということでした。正直、母に嫌いなところがあるというのは否めない。喧嘩をしたり、一方的にひどいことを言われたあとなんかには「大っ嫌い!」と思う。けど、悲しいかな、ずーーーっと昔、子どもだった頃からわたしは「母に愛されたい」と思い続けてきた娘でした。でも、そんなことに気づいたのもアラサーになった最近のことです。

怒りの裏に潜んでいる「お母さんに愛されたい、なのに無下にされる」「わたしを認めてほしい、なのに否定される」と傷ついてきた悲しみをすくい上げていき、「ああ、わたしお母さんのこと好きだったんだ。だからお母さんにもそのままの自分を好きになってほしかったんだ」と気づく。子どもの頃の自分を外から眺めるような気持ちになって、次に母の気持ちや立場にも思いを馳せてみたところで「どうすればよかった? いや、どうしようもなかった」と愕然とし、おいおいこの世には悲しみしかねぇのかよ、と思う。こうすればよかったです、誰々ひとりがすべて悪かったです、とは言えないところがあるからなおさらシンプルからは遠ざかり、むずかしい。
でも、むずかしくても、たしかに愛していた。それゆえコントロールされ、支配され、苦しんできたけれど、愛していたことも愛していることもなかったことにはしなくていいんじゃないかな。嫌いでも愛しているし、愛していても嫌っていいんじゃないかな。相反するものが同居できるのが感情ってものなんじゃないかな。そう思えるようになったわたしのいまを、ぼちぼち、書き留めていけたらいいなと思います。