むずかしくても、愛してたんだよ

毒母との関係に悩んだり、怒ったり、傷ついたりしてきた娘の思うところをつづります。

わたしの母は恋愛をしたことがない。

下記エントリーで触れた「母のお見合い話」に関して、いくつか与太話と当時思っていたことを。

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母にとって「自由恋愛をしたことがない」ということが何か心にしこり……とまでは言えないけれど、ちょっとした引っかかりのようなものを残しているのかもな、と思うことがたまにあります。
わたしが幼いころは母は無邪気にお見合いの話をし、興が乗ってくると頬を上気させ、目をきらきらと輝かせて大声で自分の輝かしいお見合い体験談をまくしたてました。某有名伝統工芸の家元とお見合いしたときには「結婚後には君に◯◯(一等地の地名)のサロンをまかせたい」と言われたという羽振りのよいものから、きちんとお断りしたのに「どうしてもダメか、考え直してくれないか」としつこく求められたという自分の女性としての価値の高さをアピールする*1系統の話、条件はすこぶるよいのに顔があまりにもまずくてどうしても我慢できなかったなどの相手を落とす系の笑い話まで、とにかく喋りたくて喋りたくて仕方ない、といった様子でした。

時は流れわたしが大人になり、いくつかの恋愛をして親に口うるさく結婚について言われるようになってからも、母はことあるごとに「たくさんのお見合いをした」と女としての栄華を極めた時代のことを熱っぽく語っていました。
たいていはわたしに現在進行形の恋愛の話を振り、「結婚はどうなの? さっさと結婚したほうがいい、恋愛なんてしてふらふら遊んでいるようではダメだ、恋愛と結婚は別なんだから遊びからは卒業してお見合いをして条件のいいひとと身を固めなさい、お母さんは恋愛をしたことはないけどたくさんお見合いをしたのよ、知ってる?うふふ、あのね(お見合い話エンドレス)」という流れ。わたしの結婚を心配されていてこういう話になったはずだったのに、それはいわゆるネタ振り。話の主人公はわたしから母へとすぐに切り替わります。

別エントリで詳しく書ければと思うのですが、母はわたしが「恋愛」をしているのを妬んでいたように思います。でも、親の立場としては「あんただけ恋人つくって青春を謳歌するなんてずるい!うらやましい!」と言えるわけもないので、わたしがしている「恋愛」を基本的に蔑み、バカにし、「恋愛というのは不真面目な遊び」「恋愛は結婚より下」だと決めつけている節がありました。
でも。でもやっぱりそれは体験したことがないことへの負け惜しみみたいなもので、「恋愛」がうらやましいのでしょうね。自分の知らない何か楽しげなものを享受している立場を妬むというひとの心は、なるほどよくわかります。自分の人生を振り返り、経験できなかったことに一抹の寂しさを覚えるだろうとも思います。


わたしが幼かったころ、母はただ過去の栄華に浸ることで自らの虚栄心を満たし、承認欲求を満たすためになんどもお見合いの話をしていました。*2
けれどわたしが大人になり、恋愛関係を持つようになったあたりからは母がお見合い自慢を繰り返す理由には「自分は恋愛できなかったけど、でもそれでもいいの。それに代わるお見合いという体験があるのだから」という自分への慰めが加わったような気がします。「恋愛はしなかった、けれどお見合いをして女としての価値を確認した、恋愛なんかよりお見合いのほうが上よ、だって結婚という結果を生むもの。あんたもせいぜい頑張りなさい、結婚しなさいね、人間は結婚してこそよ」という、わたしに対していわゆるマウンティングというものをする気持ちもあったかもしれない。

 

母が恋愛をしなかった理由は、時代や家庭環境による制限のほかに母自身の性質に負うところも大きいとは思うのですが、こういうことを考えるにつけ、なんだか切ない気持ちになってしまいます。

 

*1:こういう話を誰かに聞いても普段は「モテ自慢」と嫌なふうにはあまり思わないのだが、母に関して言えばそのあまりにもうれしそうな様子からこう書かざるをえない

*2:母からすればそれはただ楽しかったからした話であって、それ以外の目的があったとまでは考えてもなさそうですけど

國井のはなし 〜生い立ち・家庭内暴力編 1〜

自分の母娘問題を考えるにあたって、生育環境とたどってきた道筋を総ざらいすることにします。
わたしは九州出身、父と母と弟二人の五人家族の中で育ちました。つまり長子で長女。親にとっては初めての子どもであり初めての女の子という、ある意味母娘問題においては満を持しての生まれといえるかもしれません。
わたしが幼い頃から、母はいくつかのお気に入りの話を繰り返し聞かせました。自分はものすごく良い条件のお見合いをたっくさんして、そしてずいぶんモテたのだということ。昔の写真を見ると、若い頃の母はすっとした儚げな色白美人。家柄もそれなりにちゃんとしているとあって、なるほどお見合い話が引きもきらなかったというのは納得できる話です。
プロ野球球団の監督のツテで有名人とお見合いをしたとか由緒ある某伝統工芸の家元とお見合いをしたとか、華麗なるお見合い遍歴を披露するときの母のまあうれしそうなこと。それもそのはず、母はいわゆる自由恋愛というものをしたことがないのでした。

 

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そうそうたる顔ぶれのお見合いの結果、母は父と結婚。
「三男だし、明るくて清潔感があったし、なんとなくいいかなぁと思って」というのが決め手だったようです。父はデートの際にはぼろぼろの車に乗って笑顔で母を迎えに来たそうで、デートに同伴していた母の妹(結婚前提のデートに妹がついてきちゃうというのも昭和っぽい話だ)はその気取らない姿を見て「お姉ちゃん!このひとがいいよ、このひとに決めなよ」と結婚を後押ししたそうです。
いまよりも家制度が強い影響を持っていた時代なので母にとって「長男じゃないこと」はものすごく重要な結婚相手の条件だったようなのですが、ある程度条件重視で選んだとはいえ結婚してちゃんと恋愛感情は芽生えたようで、わたしのほとんど初めてに近い記憶の中で、父と母が幸せそうにキスをしているシーンがあります。
恋愛初期のライトな関係ならばたいていのカップルは幸せですが、濃い関係になればなるほど、喧嘩するのを避けるのはなかなかむずかしいもの。父と母はとにかくよく激しい喧嘩をしていました。いま思えば、これがお見合いではなく現代で普通の恋愛という形で出会い、付き合っていたならば、おそらく数年で別れてしまい結婚には至らなかった相性だろうなぁ、という感じです。

ネムーンベビーとしてわたしが誕生、その二年後に弟、それからさらに四年後に末の弟が産まれます。(ようやく話が冒頭に戻りました)
父と母はかなりの頻度で喧嘩をしていたのですが、その激しさたるや。父はかなり母や子どもたちに手をあげるひとで、母は父に蹴られて複雑骨折をし、それから約三十年が経過したいまでも若干後遺症が残っています。
わたしも含め、子どもも容赦なく殴られ蹴られしており、思い返せばわたしが子どもの頃に日々主に抱いていた感情は「恐怖」でした。さっさと食事を済ませる、片付けやお手伝いをする、などの規律を守らせるために暴力がちらつかされることもあれば、正直、「えっ?なんで殴られたんだろう?こないだは怒られなかったのに」「この程度のことで殴られちゃうの!?」と暴力の基準が明確にわからないことも多々ありました。*1
これでは暴力そのものに怯えるのは当然のことながら、「一体何をしたら怒られるのか」ということがいつまでもわからないため何をするにもびくびく、起きている間中、家庭という狭い世界の神である親の裁きに怯えることになってしまいます。また、「これがいけない、悪い」という行動に関する善悪の基準が確立されにくくなり、「なんでも自分が悪いのではないか」「これ以上間違いを犯さないようにしなくては」と思い込み、人間として健やかに成長するための土台となる自己肯定感が育たなくなってしまうーー少なくとも自分に関しては、「理由がわからないまま振るわれる暴力」というのが過剰に低い肯定感の大きな要因になっていた(る)ように思います。

 

さて、暴力そのものと同じくらい嫌だったのは、その暴力の裏にある「これで誰が一番偉いかわかっただろう」という父の心の声でした。父の暴力は「父としての、男としての威厳を見せつけてやる」という思いが悪い形で発露した結果のようでした。
家族に暴君として君臨する父。火がついたら止められない気性の激しさ。母はそれに実力行使で歯向い、言葉でも反抗するけれども、結局は実際的な力である暴力に組み伏せられる。子どもはあまりの痛みと恐怖にわあっと泣き叫び続けるのに精一杯。
父の暴力はその後も長らく続き、わたしはハイティーンになるあたりまで殴られていたような気がします。気がします、というのは辛いことなのであまり思い返しておらず、特に記憶の整理もしていないからですが、まあ、自分のことながらこのあたりについてはそっとしておいていい過去かなと思っています。(続く)

 

*1:これを書くために記憶を辿り「一応こぶしではなく平手で殴られていたな、そうか一応配慮してたんだ」と思ったりしたのですが、「こぶしじゃなくて平手で殴られるだけまし」と一瞬でも思いそうになってしまうのはよろしくないですね。暴力は全部あかんよ

大嫌い、だけじゃないからむずかしい 〜タイトルの由来〜

なんとなくブログを始めてみようとして、まず最初に行き詰まったのはタイトルをどうするか、ということでした。安直に「毒母ブログ」みたいなわかりやすいのでよくない?と思っていたのですが、いやいや、せっかく自分自身の個人的なブログをやるのだから、もうちょっと自分の心に寄り添ったタイトルにしてみようかな、と思い直し、二転三転したうえで現在の「むずかしくても、愛してたんだよ」になりました。


母との問題を抱えるひとたちは、たいてい怒っている。自分もそうだ。でも、なんでこんなに怒っているのかなと考えてみると、それは「傷ついている」から。
よく思うのですが、怒りはいつも二次的な感情です。自分自身の人間としての権利や尊さを傷つけられると、誰だって魂に響くような痛ましい傷がつきます。魂が自らの存在と何人たりとも自分を軽んじて勝手に傷つけてよいものではない、という正当な価値を主張する本能のエネルギーが、怒りという感情のもとなのではないかなぁと思うわけです。
怒りは自分を守るための正当な感情であると思うのですが、傷ができたのならまず手当を望むべきかもな、と最近は思い、カッときたり怒りが湧いてきたときにはその裏で自分がどんなに傷ついていたのかを探すようにしています。なるほど、わたしの心はこういうわけでこういうことに傷ついていたのだね、と理解し、よしよしつらかったなぁ、と慰めてあげるということを繰り返していくと、ちょっとだけ怒りの熱量が小さくなるような気がします。それでも怒りが消えることはないのだけれど、熱すぎて触れられなかった感情にちょっと距離をとって向き合えるようになります。(……けどまあ、いつもいつも同じクォリティでそういう対応ができるとも限らないんですけどね)

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というわけで、わたしも「毒母黙れ!」と思うこともよくあるし、激しくてびっくりされるでしょうけど一時期なんかは「殺すしかないのではないか」と思いつめたこともあったのですが、ずいぶん自分自身の心を見つめて、できる限り感情をクリーニングしていって思うのは、むしろ大嫌い「だけ」だったらシンプルだけどなぁ、ということでした。正直、母に嫌いなところがあるというのは否めない。喧嘩をしたり、一方的にひどいことを言われたあとなんかには「大っ嫌い!」と思う。けど、悲しいかな、ずーーーっと昔、子どもだった頃からわたしは「母に愛されたい」と思い続けてきた娘でした。でも、そんなことに気づいたのもアラサーになった最近のことです。

怒りの裏に潜んでいる「お母さんに愛されたい、なのに無下にされる」「わたしを認めてほしい、なのに否定される」と傷ついてきた悲しみをすくい上げていき、「ああ、わたしお母さんのこと好きだったんだ。だからお母さんにもそのままの自分を好きになってほしかったんだ」と気づく。子どもの頃の自分を外から眺めるような気持ちになって、次に母の気持ちや立場にも思いを馳せてみたところで「どうすればよかった? いや、どうしようもなかった」と愕然とし、おいおいこの世には悲しみしかねぇのかよ、と思う。こうすればよかったです、誰々ひとりがすべて悪かったです、とは言えないところがあるからなおさらシンプルからは遠ざかり、むずかしい。
でも、むずかしくても、たしかに愛していた。それゆえコントロールされ、支配され、苦しんできたけれど、愛していたことも愛していることもなかったことにはしなくていいんじゃないかな。嫌いでも愛しているし、愛していても嫌っていいんじゃないかな。相反するものが同居できるのが感情ってものなんじゃないかな。そう思えるようになったわたしのいまを、ぼちぼち、書き留めていけたらいいなと思います。

 

はじめましてのごあいさつ 〜「母娘問題」という言葉がくれたもの〜

はじめまして、國井入文(くにい いぶみ)と申します。
わたしもおそらくこちらに来てくださったみなさまと同じく、クセのある母との関係に悩んでいる「娘」です。いまでこそわたしと母の関係は歪んでいた、と思うわけですが、数年前まで自分の苦しみや不安定さに母親が関係しているだなんて考えたこともありませんでした。正確に言うと、母とは喧嘩も多かったし合わない部分もたくさんあったけれど、母に愛されていないわけではないし自分も母を愛していないわけでもないし、母と娘というのは「そういうもの」で「激しくて疲れるし苦しいけれど、これが普通」だと思っていました。

母娘問題、母娘クライシス、長女症候群、毒母…どれもここ数年でずいぶんいろいろなシーンで見聞きすることになった言葉たちですね。でも母と娘の間に横たわる息苦しさはいまになって急に溢れてきたというわけではなく、「母娘問題」と名がつくずっとずっと前から家族という密閉されたシステムの中に目に見えない深い海溝としてよこたわってきたものです。

 

少し横道にそれますが、「名前をつける」のはどういうことか、ということを考えることがあります。胸やおなかの中に霞や霧のようにもやもやとした思いがある、そのもやもやを味わってみたらどよーんとした気持ちになる、じゃあこのもやもやを「悲しみ」と名づけましょう、また別のものには「怒り」と名づけましょう、温かい気持ちになるものには「愛」と名づけましょう。こうして目に見えないもやもやに名前がつけられていき、それは目に見える世界に言葉としてあらわれるようになります。つまり名づけというのは、目に見えない世界のものを目に見えるこちら側の世界に産むことなんじゃないかなあと、わたしは思うわけです。

 

名前がついて言葉になると、どんないいことがあるのか?
個人で抱えていたあやふやなものに名前がつくと、世間や社会で共有し合うことができるようになります。言葉という共通認識を得ることで、一人でもんもんと抱えていたものをみんなで理解しやすくなるわけです。「母娘問題」という言葉も同様、それまで「お母さんと会うともやもやするけれどこれって何なんだろう」「お母さんとの関係に怒りや悲しみが込みあげるけれどこういう状態ってわたしだけなのかな」と悩み、身に起こった母親との出来事の断片をどうにか周りに話してみても「お母さんってそういうものだよね」「よくあることだよ」とこともなげに言われてしまうという体験をしてきた娘たちに「こんな苦しみが普通であってたまるものか!やっぱりお母さんとの関係はおかしかったんだ!」と気づかせてくれ、苦しみを共有するという体験を与えてくれるものでした。
ひとによっては、抱えていた葛藤に名前がつくことによって問題と距離をとって俯瞰できるようになったりもするでしょう。類型に自分の問題を当てはめることで「なるほど自分の苦しみの仕組みってこうだったのか」と気づいて救われることもあります。わたしがそうでした。

 

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もちろん、気づいて救われてはい終わり、といった単純なものではなくて、無視してきてしまった自分自身の感情や傷と向き合い、母との過去から今に至るまでの関係を現在の認知でとらえなおして現実の生き方に活かす……という忍耐を要する手順が待っていたりしましたが……まあ、それについては完璧じゃなくていいような気がしています。ひとは変わるものなので未来の自分がどう思っているかはわかりませんが、少なくともいまこれを書いている時点では苦しみも現在進行形ながら、まあ、それはそれでいいよと思っています。でも、やっぱりひと(他人)のことは完全にはわからないので「自分自身については」というエクスキューズつきです。
蛇足が長くなってしまいましたが、自分一人のものだった自分の体験をこうしてブログで言葉にすることで、同じように苦しむひとの肩の力がちょっとでも、一瞬でも、抜けることがあったらいいなぁなんてひっそりと思っています。あんまり肩肘張らずに、愚痴とかその日そのとき思い出したことなんかも含めて、気楽にやれたら理想的ですね。